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2015-01-06

うしろまえの人

昨年読んだ本のうちでとくに面白かったのは、ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』(下條信輔訳、 岩波書店)でした。
脳神経科学の本です。なかでも、自由意思という重要な問題をこの本は扱っています。

Mindtime

リベットのアプローチは実証的です。
「人間はしょせん精密な機械」といった一見「科学的」な見方は、実際にはまったく実験による根拠を欠いたイデオロギーに過ぎないと批判し、彼自身はユニークな実験をデザインして意思と意識の問題に切り込んでいきます。

そして、驚くべき事実を明らかにします。

私たちはものごとを自分で決めて行っているように思い込んでいる。しかし実際には、その決定をしたと意識する0.5秒前に、すでに脳はその決められた行動をとるように動き始めているのだというのです。
意識と行動が同時に始まっているかのように思えるのは、そのように主観的なタイミングを調整する(つまり実際より前にそれを意識したと錯覚させる)仕組みが脳にあるからだということが、実験で示されます。
すべての行動は、「無意識」に起動される。
無意識に始めたことを、実際には「後から」意識は知らされているのに、あたかも、自分がその行動を起こす原因となったように思い込むのです。

俄かには受け入れがたい事実ですが、少し思考実験をすると、このことの正しさは理解できるように思います。
たとえばドラマーの手足の動きを考えてみます。
早いテンポの曲でも、熟達したドラマーは手足を動かして正確なビートを刻みます。手はスネアやタム、足はバスドラムやハイハットのペダルを踏みます。
ところで、脳からの距離は、言うまでもなく手が近く、足の方が遠い。神経の伝達速度は1秒間につき60メートル前後ですから、音速(340.29m/秒)よりだいぶ遅い。この距離の違いは無視できません。
もし手も足も同じビートを刻むことができるとすると、当然のことながら、足には手よりも少し早く、脳から指令が出されていないとおかしいことになります。
しかし、このドラマーは決してそのようにタイミングをずらしていることを意識していないでしょう。
自分は手も足も同じビートで動かしていると感じているはずです。
ということは、そのように調整され、編集された情報が意識には伝えられているということになります。
つまり、意識はドラム演奏をまったく司っておらず、無意識に行った動作について知らされているだけ(しかも適当に編集された、厳密な意味では間違った情報を)なのだということです。

まあ、こんな思考実験をしなくとも、楽器の演奏は「意識」などしていたら不可能ということは、楽器奏者なら誰でも知っていますね。
スポーツをしているときの手と足の動きも、もちろん無意識です。このあたりは、リベットの本でも様々な例が挙げられています。
ポイントは、演奏やスポーツに限らず、会話や、こうしてパソコンを前に文章を書くという作業すら、すべて無意識に起動されているということです。

すると、実に興味深いことに気づきます。
他の人が見ている自分。何を見ているかというと、言動を見ているわけです。
僕なら僕のパーソナリティは、僕の言動として表れている部分によって他者から理解されている。
ところがその言動は、僕の意識が行ったものではない。僕がどんな言動をしたかはもちろん意識しているけれでも、それは僕の意識が行ったことではなく、単に知らされているだけである。
デカルト的な意味で、僕とは、僕の意識のことです。リベットもこの立場に立っています。そう考えると、他者が見ている僕は、僕ではない誰かであって、ここにいる(意識としての)僕のことは、僕以外、誰も知らないということになるんじゃないでしょうか。

ところで昔、Webサイトで面白い記事を読んだことがあります。
うしろまえの人」という記事です。
リンク先を見ていただければわかりますが、耳が隠れるくらいの髪の長さの女性が衣服を前後逆に着て、(実際の)背中の方から見ると、「顔が真っ暗な別の人」の姿が浮かび上がるという話です。脳神経科学とはなんの関係もありません(笑)。
でも、この本を読んだとき、僕はついこの「うしろまえの人」を思い浮かべてしまったのです。
誰しもこの「うしろまえの人」を抱えている。無意識、という名の。

いや、他者に対して現われるのはむしろ無意識の方ですから、意識の方が、むしろ「うしろまえの人」なのでしょう。
意識は、何も言わない。何も行わない。おそらく、考えもしない。
ただ、知らされている。
では、意識(としての僕)は何のために知らされるのでしょうか。

リベットは、それを「拒否のため」であるといいます。
無意識が何かを行うことを決めて、脳が身体に指示を出し、0.5秒後に意識にそのことを通知し、さあいざ動き出すというその時の前に、まだわずかな時間があります。
そのわずかな時間に、これから行うことが不適切であると判断されれば「ストップ」という指示を出すのが、意識の役割だというのです。
そのようにして、自由意思を、「拒否権の行使」という形でリベットは救い出そうとします。

ですが、僕にはいささかこれは無理があるような気がしました。
たしかに、何かをしようとした瞬間にそれを思いとどまるということは、誰でも経験があります。
そうした拒否もまた無意識に起動されているという考え方は、当然成り立ちます。
リベットは、意識の行う「拒否」について、「それを否定する実験的根拠はない」と言います。ですが、肯定する実験的根拠も得られていません。
自由意思というものを信じているらしきリベットが、自分自身でそれを否定するような実験結果を出してしまったため、なんとか自分の思想とその実験結果を折り合わせようとして考え出した、少々苦しい理屈のように思えます。

しかしそうなると、意識(デカルト的な意味での、僕自身)に役割はないのでしょうか。
すべて無意識の中で、おそらく生理的・物理的な因果連関によって行動が生み出されるとしたら、僕ら(の意識)の仕事は何なのでしょうか。
それは単に結果に過ぎず、そもそも大きな意味などないのでしょうか。

もちろん、僕にそんな難しい問題がわかるはずはありません(笑)。

ただ、少し思ったのは、デカルト的な「私」の概念、つまり意思=意識という定式を拡張してみたらどうだろうということです。
つまり、無意識もまた僕である。
こう書くとなんだか当たり前のことのようですね。
でも、単にそれが僕の一部だというだけでなく、その無意識にも意思がある、いや、無意識にこそ意思がある、と考えたらどうでしょうか。
(言葉の定義としては間違っているかもしれませんが。)

そして、意識の僕と無意識の僕は、どこかで対話をしているのです。
しかし、ならばどこで対話をしているのだろう。やはり夢の中だろうか。

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コメント

興味深く読ませていただきました。
「書評」「読書感想」というより、本を軸としたエッセイのようですね(^_^)

投稿: kei@solo_el_fin | 2015-01-07 12:21

Keiさん;ありがとうございます。僕は読みながら思ったことをメモにつけておくのですが、この本のメモはけっこうまとまった量になったので、記事にしてみました。

投稿: ひで | 2015-01-07 23:38

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